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北四番丁通信

 

「北四番丁通信」とは、仙台教会で日曜日ごとに発行している「週報」の巻頭言です。牧師および複数の教会員が執筆を担当しています。

当教会は1955年に仙台市の北四番丁沿い・旧奥州街道近くに設立されましたが、「北四番丁」という地名は、400年以上も前に城下町が造られた当初からの由緒ある地名で、江戸時代は武家屋敷が連なっていた地域でした。

歴史の流れと共に町並みも住む人々もどんどん変わっていきますが、いつの世においても変わることのない真理の言葉を、仙台教会に許されている時間の中で、たゆむことなく宣べ伝えていきたいと私たちは願っています。

敬うとはなに 

2024年9月15日 渡邊義人(教会員)

 教会の中にいると、私は、若者のように扱われますが、仕事などでは、もう老人一歩手前ということになります。公務員や会社勤めの同級生の友人たちは、後2,3年で定年退職になる人もいますし、少し上の先輩たちは、続々とそういう立場になっています。もちろん、60歳過ぎても働きたい人がほとんどなので、すぐに仕事を辞めてという人はほとんどいませんが、後輩に立場を譲ったり、アドバイサー的な立場に変わっていくことで、少しづつ最前線から遠ざかっていくことになるのでしょう。少し寂しい気もします。
 私は、若かりし頃に想像していた、年相応に、経験豊かな頼れる大人というか、そういった立場になっているとは全然思えないです。日々の仕事でも、普段の生活でも、小さい失敗を繰り返し、そこに加齢による能力低下もあいまって、若い同僚や、家族に迷惑をかけることが今もあります。三日に1回は誰かに謝っているような気がします。60歳手前の大人って、こんな感じでいいのかしらと、思ってしまいます。敬われる立場では少なくともないなと。
 ただ、敬うということはどういうことなのかなとも考えます。その人に価値があるから敬われるのか。実績があるから、経験豊富だからでしょうか。そもそも、どの立場で見たときにその価値が測られるのでしょうか。人が人を評価することの難しさを思いますし、自分のことを棚に上げて言えば、人の存在価値など、他人が決めることでもないのかなとも思ってしまいます。ならば、年齢というのは、ある意味客観的な評価基準になるのかもしれません。この年になるまで元気に生きてこれたのなら、それはそれで立派だよ。そう言ってもらえるのありなのかなと。それはある意味、評価ではなく、ありのままを見てもらっていることなのかもしれません。甘すぎると思いますか? でも、イエスなら、最終的にはそう言う気がするんですよね。でも、これって褒めることないときの言い方かな?

仙台,教会,キリスト教,プロテスタント
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